新宿二丁目という街の発祥起源を辿る①

江戸時代~編

1604年に日本橋を起点とした五街道が定められ、そのうちの一つ”甲州街道(新宿通り含む)”では、最初の宿場”高井戸”までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで設けられたのが、ちょうど”高井戸”との中間地である現在の”新宿”、つまり現在の新宿二丁目辺りになります。じつは、表向きは宿場町としながらも、実際は遊郭として繁栄していく色街の歴史が始まります。二丁目内にある成覚寺の境内には、いまも遊女を供養する合埋碑が置かれ、その名残を感じることができます。

新宿という地名は、「新しい宿」という意味が込められています。また、信濃国高遠藩・内藤家の中屋敷を幕府から返上したこと、以前よりこの付近にあった”内藤宿”に由来し、当時の名称は「内藤新宿」と呼ばれていました。

江戸時代、新宿の復元模型

▲江戸時代、新宿の復元模型

成覚寺の子供合埋碑

▲成覚寺(じょうかくじ)の子供合埋碑

太宗寺案内図

▲太宗寺(たいそうじ)案内図

【出典】Wikipedia-内藤新宿
【出典】一般社団法人新宿観光振興協会-内藤新宿太宗寺の文化財
【出典】一般社団法人新宿観光振興協会-成覚寺 恋川春町の墓 旭地蔵 子供合埋碑