新宿二丁目という街の発祥起源を辿る⓪(番外編)

平安時代~江戸時代のゲイカルチャー編

ゲイカルチャーの歴史を辿ると、平安時代の文献まで遡ることができます。
その中には、「寺院における僧と稚児(寺院の小間使い)の男色」と記載されております。
また、江戸時代においては、武士同士の男色が盛んに行われていたとの記述もあり、若衆歌舞伎と呼ばれる身体を売る歌舞伎は俳優などや、男色を売る陰間茶屋なども有名なゲイカルチャーの先駆けとして残っています。

江戸時代中頃の陰間茶屋(陰間が売春をする居酒屋)においては、カラダを売る女の子を”遊女”と呼ぶのに対して、男色を売る男の子を”色若衆”と呼んでいました。そういった少年が働くお店は、現在の京都、大阪、東京などにも多数あったとされ、中でも芝居小屋の多かった日本橋人形町や、上野にほど近い湯島天神周辺、港区芝の大神宮周辺に集中していました。京都は宮川町、大坂は道頓堀などが有名であり、今と変わらない繁華街の繁栄が続いていることが伺えます。

1775年に平賀源内が著した「男色細見」では、陰間茶屋などのガイドブックとも言われており、その中では既に現在における発展場が存在した旨の記述があります。ゲイバーが集まる地域をゲイ・タウンというならば、陰間茶屋が集まったそれらの地域もゲイ・タウンと類似した地域と言えるのかも知れません。